宝筐院の歴史

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1 宝筐院とは?

宝筐院(ほうきょういん)とは、京都嵯峨野にある臨済宗の寺院です。
紅葉の美しさに定評がある当寺院は、テレビ・雑誌・書籍等のメディアで幾度となく紹介されました。庭園の写真がジグソーパズルやカレンダーに使用されることもよくあります。また、秋の紅葉シーズン以外でも、四季折々の花が咲き、風情ある庭園が楽しめます。

2 宝筐院略史

宝筐院は、平安時代に白河天皇(1053〜1129)の勅願寺として建てられました。勅願寺とは、勅願によって鎮護国家・玉体安穏のために建立された寺のことをいい、東大寺・大安寺・薬師寺などがこれに当たります。

宝筐院は、建立当時から「宝筐院」と呼ばれていたわけではなく、元々の名は「善入寺」といいました。平安の末から鎌倉時代にかけては、数代にわたって皇族が入寺し、住持となりました。

南北朝時代になり、貞和年間(1345〜50)から夢窓国師の高弟である黙庵周諭禅師が入寺し、衰退していた寺を復興させ、中興開山となりました。そして、この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし、これ以後は臨済宗のお寺となりました。

室町幕府の二代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)は、貞治四年(1365)に母の死去にあいました。その法要の席において、黙庵から経典の講義を聞き、更に参禅問答したことを契機に黙庵に帰依しました。そして、師のために善入寺の伽藍整備に力をいれました。

当時は、東から西へ総門・山門・仏殿が一直線に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていました。寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わっていません。

貞治五年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となりました。そして、八代将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院にちなみ、寺名は宝筐院と改められました。備中・周防などに寺領があり、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛でした。しかし、応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微してゆきました。寺領も横領されるなど、経済的に困窮していったからです。

江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院となり、門の位置は今とは異なり、南に向けて設けられていました。
幕末には廃寺となりましたが、五十数年を経て復興されました。

3 小楠公首塚由来

黙庵は、河内の国の南朝の武将楠木正行(くすのき・まさつら)と相識り、彼に後事を託されていました。

正平三年・貞和四年(1348)正月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦って討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬りました。後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう頼んだといいます。

明治二十四年(1891)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、首塚の由来を記した石碑『欽忠碑』を建てました。

4 伽藍復興

楠木正行ゆかりの遺跡を護るため、高木龍淵天龍寺管長や神戸の実業家の川崎芳太郎によって、楠木正行の菩提を弔う寺として、宝筐院の再興が行なわれました。

旧境内地を買い戻し、新築や古建築の移築によって伽藍を整え、屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦をもちい、小楠公ゆかりの寺であることをしめしました。

大正五年に完工し、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像(左の写真)を本尊に迎え、主な什物類も回収され、宝筐院の復興がなりました。その後、更に茶室が移築され、現本堂が新築されました。

現在の宝筐院は、臨済宗の単立寺院です。




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